[南大河原/寺社]天満宮社(Tenmangu Shrine)

恋路橋から坂を登ったところに鳥居があります。右に「天満宮社」、左に「恋志谷神社」とあります。両神社は、同じ境内にあります。もともと天満宮社があっところへ、明治に恋志谷神社が移されました。鳥居の向こうに見える石段を登ると、境内です。

この鳥居は、江戸時代初期の正保4(1647)年に、柳生宗冬が寄進したものです。鳥居には、そのことを示す銘文が彫られています。そのとき、天満宮社の改築を宗冬がおこなったと伝えられています。

柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南をつとめた剣豪・柳生宗矩の子が柳生宗冬です。父と同様、将軍家兵法指南役に任じられて徳川家綱や徳川綱吉らに新陰流を伝授した功により、柳生家を大名に復帰させました。南山城村は、柳生家と深い関わりがあります。

 

説明板より
天満宮石鳥居 大字南大河原

柳生宗冬公が父柳生宗矩や2人の兄(長兄十兵衛・二兄友矩)の愛したこの土地の神社(正保4年に合社。恋志谷神社・天満宮社)改築に伴いこの鳥居建立寄進したものである。

 

鳥居には銘文が刻まれている。

正保四年

奉建立天神御寶前石鳥居柳生主膳正宗冬敬白

亥丁六月二十五日

 

父や兄が柳生の主人公として深いかかわりのしるしに寄進したものであり、歴代の藩主がこの地を重要視したあらわれである。奈良県柳生の八坂神社の鳥居も同じく柳生宗冬が建てている。

南山城村教育委員会

 

 

天満宮社が右の石段、恋志谷神社が左の石段です。

 

 

右の石段の上に天満宮社の鳥居があり、その奥が本社です。

下の写真は、拝殿です。拝殿は参拝や神様への祈り、感謝の儀式をするところです。この天満宮の拝殿はトタンでおおってありますが茅葺きです。天井がなく吹き抜けになっています。どんな構造になっているかよく観察しましょう。内部には絵馬が飾られています。ここで雨乞いの花踊りが行われたという記録があります。

 

 

上の写真で、トタン屋根の建物は拝殿です。トタンでかやぶき屋根をおおって保護しています。 天井がなく吹き抜けになっていて小屋組の様子が見えるので観察しましょう。江戸時代には、ここで雨乞いの花踊りが奉納されていたようです。

 

 

本社の中央に「天満宮」、左に「国主神社、八王子神社」、右に「八幡宮、西宮八王神社」とあります。

 

 

恋志谷神社との間には、伊勢神宮遙拝所と橿原神宮遙拝所があります。

 

 

石段下には、5つの燈籠が並んでいます。かつてはここにも、六斎念仏講(芸能を伴う念仏)がありました。そのなごりをとどめています。

 

説明板より
社殿に向って左側に四角形一基が立っている。天文14年(1545年)の造立。花崗岩製総高183.4センチメートル、基礎半分は土中に埋まるが、側面二区に分ち、格狭間上端反花を彫り出す。角竿に三行の銘文を刻んでいる。

 

右側「天文14年 巳」

中心に「梵(キャ)奉寄進六済中人数各々敬白」

左側に「三月十五日」

 

屋根の反り軒作りも穏やかで室町様式を伝え、宝珠も当初のものを使用している。六斎講中の人々の寄進で本来は十一面観音をまつる堂前が石仏の前に建っていたもので、我が村最古の石灯篭である。