[南大河原/寺社]恋志谷神社(Koishidani Shrine)

恋路橋を渡って坂を登ると、鳥居があります。右に「天満宮社」、左に「恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)」とあります。

 

 

鳥居をくぐると、石段があります。

 

 

石段をのぼったところが、境内です。下の写真、左右に石段が見えます。左が恋志谷神社、右が天満宮社です。同じ境内にあります。恋志谷神社は、もとは別の場所にありましたが、明治期に天満宮社境内に遷座されました。

 

 

恋志谷神社の鳥居は朱色です。

 

 

鎌倉時代末、武士たちは幕府への不満をつのらせていきました。平安時代の世を理想とする後醍醐天皇は、今がその時と、倒幕をくわだてますが、事前に計画がもれてしまいました。幕府の追っ手をかわしつつ、笠置山へと移りました。元弘元(1331)年9月のことです。笠置山に拠点をかまえて幕府軍と戦うこと1カ月。笠置山を取り囲む幕府の大軍には力及ばず、天皇方は敗れ、後醍醐天皇も幕府につかまり、翌年、隠岐の島へながされることになります。南大河原には、口伝えで次のような話が伝わっています。

ちょうどそのとき、高位の女官が病気療養のため伊勢にいました。合戦の知らせを聞き、いても立ってもいられぬ思いで合戦場へ駆けつけたものの、すでに後醍醐天皇は落ちており、天皇をお支えすることもかなわず、幕府にとらわれたからにはいつ会えるとも知れず、「恋しい、恋しい」と叫びながら、南山城村の南大河原地区で、自ら命を絶ちました。後の世の人々に、同じ思いをさせたくないと、願を立てつつ、最期を迎えたとのことです。その地が恋志谷神社となり、良縁や安産にご守護があるとの信仰が広がっています。

 

 

石段を登ったところに、本社があります。右に「伊勢神宮遙拝所」が見えます。

 

 

天満宮社の本社と並んでいます。

 

 

石段の下には「恋志谷神社口碑伝説」の碑がたっています。この口碑の内容について、すぐ横に説明板があります。

 

説明板より
戀志谷神社口碑伝説 大字南大河原

 

この碑にはこのように文字が彫られている。

 

「當社内二奉鎮座戀志谷姫神ハ人皇九六代後醍醐天皇ノ寵妃ニ座々セシト伝ウ 天皇元弘元年笠置山ニ拠テ北条高時ヲ討チ給フ官軍利アラズ翌貳年参月隠岐ニ移リ給エリ時ニ姫神病アリテ伊勢海辺ニ御療養セラレ御平癒アリテ笠置行在所ニ御皈途當區今ノ古森迄テ御着キ給ヒシニ帝既ニ御出行ノ後ナリシ由ヲ聞シ給ヒ悲憤無極遂ニ御持病再発御自刃御崩御セラレシトカヤ 姫神御辞世ニ陛下ノ御身上ヲ愛慕セラレ亦身ノ病苦ヲ歎カセ給ヒ後世ノ人々ノ病苦厄難ヲ恵樹セシムト宣工シト口碑ニ遺レリ以信者一同告ケ之ヲ千古ニ伝フ」

 

現代語訳すると、このようになる。

 

「当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわれています。 後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に笠置山で北条高時を打ち破りましたが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘2年3月に隠岐へ配流されました。 一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。そして病気が治った後に後醍醐天皇がいた笠置へと向う途中で、ここ南大河原の古森に着きました。姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自らの命を絶ったのでした。 姫が遺した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身に受けますとあったと言い伝えられています。そのためその言葉を人々に伝え、これを永遠に伝えます。」

南山城村教育委員会