[南大河原/石仏]十一面観音磨崖仏(Statue of Kannon)

恋志谷神社から木津川沿いに西へ800メートルほど行くと左に行く道が目に入ります。それを見送るとすぐ左側に、左に分岐する小道があり『山火事注意』の看板があります。ここをやり過ごした150メートル先左側に磨崖仏があります。

 

 

道ばたに磨崖仏があります。気をつけていなければ、見逃してしまうでしょう。

 

 

京都府南部には、磨崖仏が多くあります。お顔の表情なども、じつにさまざまです。ここの観音様は、お顔に甘い情感がただよい、肩も穏やかな曲線をもっています。観音様を拝見すると、平和を感じますが、作られたのは、戦国時代の最中です。どんな祈りをささげたのでしょう? 当時の世の中とは逆の世になることを祈ったのでしょうか?

元弘の役以降、笠置寺への信仰が強まり、各地から笠置寺を訪れる信者が増え ました。その信者たちが道に迷わないよう道標代わりに石仏が刻まれたようです。 ここの十一面観音磨崖仏もそのひとつだっようです。

16世紀前半になると、元弘の役で荒廃していた笠置寺は復興を遂げ、多くの信者が各地から訪れるようになりました。南大河原のこの道は伊賀方面からの参詣道となり、十一面観音像はおそらくその道しるべの役を果たしたのでしょう。

 

 

説明板より
十一面観音磨崖仏 大字南大河原

この十一面観音は、高さ111センチメートルの舟形光背を彫り、像高94センチメートルの観音さんを半肉彫りしている。

特徴は通常の姿と異なって、右手に錫杖を持つところから、長谷形十一面観音(観音さんと地蔵さんの合体相)と呼ばれる。銘文には光背外に右「天文3年甲午(1534年)」左「3月18日慶春」の刻銘があり室町時代の造立。この脇の阿弥陀石仏は作風から見て、室町時代よりわずかに降るであろう。

南山城村教育委員会

 

 

観音様の右には、別の岩に弥陀磨崖仏があります。半分埋まっているように見えます。お顔がまるいこと、観音様に雰囲気が似ています。作られた時期は観音様より新しいようですが、すぐ隣に作ったということは、観音様を意識してのことでしょう。戦国時代が終わり、太平の世になっていたでしょうか?

 

 

磨崖仏と反対側には、眼下に木津川が流れています。当時の人たちも、同じ景色を見たでしょうか?