[北大河原/石造物]二本杭(Double Border Post)

今山地区の入口にあたる辻に、案内があります。右の上り坂方面へ行くと「二本杭」と書かれています。

 

 

辻から550メートルほど坂を上ると、京都府と三重県の府県境にでます。ここに、二本杭があります。二本杭に隣接して民家がありますので、写真を撮る時など、ご配慮をお願いします。

 

江戸時代前期の元禄時代(1688~1704年)、将軍綱吉は全国の絵図作成事業を命じました。江戸幕府として3回目の絵図作成です。前2回と異なり、厳密な作業をおこなったため、それまではなんとなく過ごしてきたあいまいな国境が、大きな紛争となりました。

 

北大河原村(現在の南山城村、当時は山城国)と、島ヶ原村(現在の三重県伊賀市、当時は伊賀国)とで主張が食い違い、お互いの話し合いでは決着がつかず、元禄12(1699)年に、江戸幕府へ出訴するにいたりました。幕府評定所で取り調べがおこなわれ、検使派遣による現地調査によって、両者の主張がしりぞけられ、この地に杭が打たれました。

 

江戸時代には木の杭でしたが、明治19(1886)年に石柱に作り直されました。「従是西山城国」は現在の二本杭の場所(旧大和街道)に、「従是東伊賀国」は新大和街道に建てられました。平成15(2003)年に、「従是東伊賀国」が二本杭の場所へ建てられ、二本杭とされています。

 

 

説明板より
二本杭の由来

 

二本杭とは俗称で、旧大和街道の藤堂藩《伊賀の国》と柳生藩《山城の国》の境として、元禄十二年(一六九九)幕府検使の指示により、それぞれの杭を合わせ設置された箇所と伝承されている。

 

その後、明治十九年(一八八六)道路改良社開設の新道を三重県に移管の際、三重県と京都府が協議し、その合意に基づき京都府「従是西山城国」は旧道へ、三重県「従是東伊賀国」は新道に、それぞれ石柱を建立されたものであり、行政上確定され文化的、歴史的にも価値の高いものである。

 

江戸時代にはここに「従是西山城国」「従是東伊賀国」の二本杭が立てられていた。その箇所に平成十五年(二〇〇三)に三重県からの補助金で「従是東伊賀国」を旧大和街道向きに石柱で再現した。

 

 

さて、では、新大和街道にあった「従是東伊賀国」はどうなったのでしょう?

 

辻へ戻りましょう。二本杭は右でした。左へ行くとすぐ、津島神社があります。

 

 

そこを過ぎて、辻から400メートルほどのところが、京都府と三重県の府県境です。ここに、「従是東伊賀国」が残っています。

 

 

「領地争い」といっても、武力衝突ではなく、法に基づき、平和的な解決がなされました。人びとは、決定事項を遵守し、後世へ伝えていこうというシンボルです。