[北大河原/石仏]かくれ地蔵(Stone Sign of Buddha)

やまなみホールの裏の広場から東に進むこと300mほどで山城谷川の小橋に出ます。渡って広場を過ぎると右側に大きな岩があり、看板が目に入ります。これが「かくれ地蔵」です。

 

 

 

その名の通り、彫られた弥陀(みだ)や地蔵の姿は見えません。もともと道に面していた岩が、1953(昭和28)年の大水害やその後の増水で、地面の土がえぐられて移動し、今の状態になったようです。お姿を拝もうとしたら土を掘り、あお向けに寝て見る以外方法はありません。下の写真の拓本(たくほん)はそのようにして写したものです。

岩の高さ2.4m、幅3m、奥行き2.3m、六地蔵さんは高さ34cm、左の弥陀は33.5cm、右の弥陀は31cmの像高があります。製作は室町時代といいます。。

六地蔵というとお墓の入口にあるものという印象が強いがそうとは限らないようです。付近にはお墓はなく、今歩いてきた道が実は昔のままの大和街道なのです。地元民をはじめ、大名、武士達、商人などここを通行する人々の安全を願ってつくられたのでしょう。

この道の幅は2.4m、東に200mも進むと大河原宿の入口です。下の写真は川側から撮ったかくれ地蔵です。

 

 

道路から反対側へ回り、下の石とのすきまをのぞき込むと、お地蔵様をおひとりだけ目視できます。

 

 

 

下の写真は1811(文化2)年に描かれた川絵図です。4隻の高瀬舟(たかぶね)が浜に引き上げられています。かくれ地蔵のある場所が描かれているのです。目の前の大河原大橋から見下ろせばよく分かります。ここが大河原浜(上之先浜)です。

 

 

高瀬舟は長さ12m、幅2m程でこの浜から村で生産された木柴や木炭、信楽焼などが下流の笠置浜まで運ばれ、京都・大阪に運ばれました。帰りは大阪・京都からの品物が運び上げられ、伊賀や甲賀方面に馬で輸送されていきました。

絵図ではわかりにくいですが右下に黒く塗られているのが岩盤でその左、川の真ん中にあるのが「試(こころ)み石」です。平水で水面から約1mほど頭を出していたこの岩の見えかくれで上流まで船がさかのぼれるかを見定めていたのです。

70年前の小学生たちは、夏中この岩に泳いで渡り、カッパになりきって遊んだものです。今では、「試み石」は大河原大橋の真下に沈んでいます。

下の写真のように、向こうに大河原大橋が見えます。

 

 

下の写真は、大河原大橋からかくれ地蔵付近を撮ったものです。水面のむこう側は笹でおおわれていますが、上の絵図に描かれたように江戸時代には砂浜でした。砂浜の中央には渋久川が流れ込んでいます。石垣に沿って大和(伊賀)街道が東西に通っていました。現在も昔のままの姿で残っています。石垣も当時のままのようです。