[南大河原/寺社]真輪院(Shinrinin Temple)

恋志谷神社天満宮社のすぐ東隣に、真輪院があります。明治43(1910)年に、北大河原の真蔵院と南大河原の十輪寺とが合併し、それぞれから1字ずつとって新しい寺院名となって誕生した寺院です。

真蔵院は、江戸時代初期に開かれた真言宗の寺院です。

十輪寺は、柳生友矩の菩提を弔うために、柳生宗冬が正保4(1647)年に創建しました。剣豪・柳生宗矩は、柳生藩初代藩主にして将軍家兵法指南をつとめました。息子には、十兵衛、友矩、宗冬らがいます。友矩は、将軍家光から大名になるよう再三すすめられましたが、若くして亡くなりました。弟の宗冬は友矩の死を悲しんで、十輪寺を建てたとのことです。

隣の天満宮社とあわせ、柳生家と深いかかわりがあります。

 

説明板より
十輪寺跡(柳生友矩の墓) 大字南大河原

十輪寺は、柳生宗冬(柳生家三代藩主)が父宗矩の死後4千石を領した時、その領地に含まれていた南大河原村に兄友矩の菩提を弔うために建立したという。

柳生友矩は宗矩の次男として生まれる。母は京都の烏丸家の出であり、慶長8年の生まれ、幼名を左門と称し、文武両道に優れ容姿端麗で15才で将軍家に仕え、寛永11年(1634年)6月、22才で徒士頭、同8月刑部少補友矩となった。その年11月2000石を受け、高尾・大河原を治めた。家光の側近の一人として破格の出世をするが、あまりに家光に近付きすぎたため父の怒りにふれ柳生の里に謹慎、病床につく。その後寛永16年6月に27才の若さで没した。現在の真輪院の東側に石碑も残っている。

 

 

真輪院の本尊は、江戸時代に作られた禅定印をむすぶ釈迦如来坐像です。真輪院には、平安時代の両界曼荼羅(絹本著色)、鎌倉時代初期の星曼荼羅(絹本著色)が現存しています。京都府指定有形文化財です。

曼荼羅とは、真言宗や天台宗など密教宗派で、仏の世界観や悟りの境地を描いた絵です。修行中の僧侶がお経に書かれた内容を学んだり、曼荼羅の模様や絵と向き合って悟りの境地に至ったりするそうです。
真輪院には2つの曼荼羅が残されていました。ひとつは平安時代末期(12世紀頃)の作風を示す両界曼荼羅(りょうかいまんだら)(縦92cm、横74.7cm)。もうひとつは鎌倉時代前期(13世紀)の作とみられる星曼荼羅(縦60.5cm、横40.5cm)です。どちらも南都の絵師による画風で800年からの年月を経て色落ち、剥落(はくらく)など劣化が進んでいます。現在は奈良国立博物館で保存されています。

曼荼羅は、一般的には2m~4m四方の大きな絵ですが真輪院の曼荼羅は1mにも満たないコンパクトなものです。専門の学者の鑑定によると、小さいが、極めて精細柔軟な線で描かれ、朱・丹・白緑の良質な顔料で彩色され、多数の仏を原図と違わず描いているそうです。奈良国立博物館に行って実物を観たいものです。

これらは平安・鎌倉時代に「天山(あまやま)の杣(そま)」に建てられた粗末な寺(庵)に備えられ、今日まで800年も代々の修行僧に大切に受け継がれてきたと考えられています。すごいですね。
両界曼荼羅が平安時代末期の制作なのに対して星曼荼羅は鎌倉時代の作風を残しているそうです。他の曼荼羅との違いは絵の上方に明日香の高松塚古墳やキトラ古墳の石室の天井画に見られるような星座(北斗七星?)が金箔と朱線で描かれていることだそうです。

 

 

真輪院の境内、道路沿いに、十三重の塔があります。

 

説明板より
十輪寺寺跡の十三重塔 大字南大河原

花崗岩製十三重塔で基礎の側面四方は素面である。塔身は高さ28センチメートル、幅は29.8センチメートル、下端は29センチメートルで月輪内に種字でウーン(阿閦)、タラーク(宝生)、キリーク(弥陀)、アク(不空成就)の金剛界四仏種子を配している。この塔は軒反の萎縮等から考えて室町時代中期の造立と考えられる。