[田山/城趾]西の城跡、東の城跡、東出城跡(Ruins of Castles)

府道今山・月ヶ瀬線を南に行き、農村婦人の家前の三叉路を右折すると、正面に見えてくる小山が西の城です。柳生家の郷士であった西城氏の館城であり、現在はその子孫である西城さんの居宅です。田山西の城跡お城の中に家が見えています。

 

16世紀後半にはもうここに城があったことが記録に残っています。山城(やまじろ)と言います。弓矢、刀、槍が主な兵器であったころの城で、小高い山の上に土塁や曲輪(砦)を築き、ふだんは麓の家に住み、いざ戦になるとこの城に立てこもって戦いました。

その後、鉄砲・大砲が使われるようになると城は平地に築かれ、天守閣を築き、堀で囲った城に変化し、城の周りに城下町をつくるようになったのです。

次の地図を見て下さい。田山には山城跡が三つあります。西の城、東の城、東出城です。地図の中の鳥居マークは諏訪神社です。その南側に集落が広がり、田山の中心地になっています。その中心地のまわりに城が3つ、それもごく近くに築かれているのです。どうしてでしょうか。

 

 

田山には、このほかに東の城(小字ヨシノ下)、東出城(小字東出)などの山城がありました。3つの城は田山の中心部を守るようにぐるりと配置されています。

余談ですが、田山は高尾や北大河原とともに奈良時代から南都大寺院の荘園や杣で、15世紀初めには興福寺(大和の守護)の支配を受けていました。しかし、これをこころよしとしない田山や高尾は団結し、柳生・邑地・阪原・大柳生ともに興福寺に対抗したのです。その支えになったのが国人と呼ばれる在地の武士でした。守護に武力を盾に対抗できるほど田山や高尾の人々は力を蓄えていたのです。このように団結し武力を持った村を惣村と言います。

戦国時代(1500年代末~1600年代中期)になると他国から攻められないように、田山でも山城を構えるようになったのでしょう。

下の2枚の写真は、上が田山西の城跡、下が田山東の城跡(観音寺墓地のすぐ東の山、写真では濃い緑の森)です。