[南大河原/自然]明神の滝(Myojin Waterfall)
大河原大橋から高山ダムへ向かう府道の中ほどに、下のような説明板があります。左が「明神の滝」、右が「弓が淵」となっています。
この説明板のすぐ向こうには大河原発電所の取水ダムがあります。ダムの水量が多いとき、オーバーした水はまるで白いカーテンのように流れ落ちています。周りの緑とも融け合って木津川流域のどこにもない涼やかな雰囲気を醸しています。取り水ダムから向こうが弓が淵です。
「明神の滝」というものの、落差のある滝ではなく、岩だらけの早瀬が広がる荒々しい景観のことです。古代より、木津川は重要な水運でした。現在のように自動車や鉄道がないため、物資の運搬に船が使われていました。伊賀から下ると、ちょうどここが、急流の難関でした。ここで筏(いかだ)をはずし、滝を通過した後に筏を組む、ということが後々までおこなわれました。
奈良時代、木材が停滞してどうすることもできなくなり、困り果てた末に高僧が集まり、雨乞いの願をかけて、無事満願の日に大雨が降って、流すことができたという伝説もあります。
下の写真で、写真の白い泡の部分が筏を通す筏道だったと考えられます。
筏みちの急流の中の大岩は、ところどころ、タガネを入れて割った跡や、四角く浅い小さな穴がうがたれた跡が見られます。これは、木津川の水運の難所のために、水路を開くための工事や、水路に関する施設と考えられています。伊賀の藤堂藩は、上野まで通船させようと江戸時代に二度にわたって工事を実施しました。請け負ったのは京都の豪商、角倉了以とその子孫の玄信です。しかし、下流域住民の反対にあったり、難工事であったりしたため、計画半ばで中止となり今日に至っています。
工事の痕跡は双眼鏡があれば府道からも見られます。下に降りれば新たな発見があるかも……その場合、事故にはくれぐれも気をつけて下さい。下の写真はタガネを使って岩を割ろうとした痕跡が確認できます。(肉眼でも見えますが双眼鏡があればいいですね)
薪炭の集積地として河原が使われたり、白滝明神など、信仰の対象の場所でもありました。明神の滝の背後の山は、急斜面となって、屏風のように取り囲んでおり、すぐれた景観をなしています。
老松やさつきの生えた巨岩が木津川の河原に有り、地元の人は白滝明神という。この地域、滝といっても川幅が狭くなり急流をなしている所で雄滝・雌滝と古くからいわれている所である。
古く奈良朝より木材供給の水運上重要な木津川の中でも、ここから笠置浜までは筏流の最大の難所であり、南都高僧が何回も笠置寺にこもって水運をひらいたとの古文書も残っている。又、和州神野寺の僧も何回となくこの地を訪れ、河川の祈祷をした言い伝えもある。この付近の河原は薪炭の集荷地でもあり、江戸時代には「滝の鮎」と称された鮎の群集地であった。
南山城村教育委員会