[北大河原/石仏]六地蔵磨崖仏(6 Statues of Buddha)
野殿へ至る旧道沿いに、六地蔵磨崖仏があります。自動車が通る道からだいぶん入ったところにあり、歩いてしか行けません。上から行く道と、下から行く道を両方とも案内します。六地蔵磨崖仏は、むしろ、そのルートを楽しめるスポットです。
【上からルート】巨岩ごろごろアドベンチャー!(700メートル)
大げさに言うほど危ないわけではありませんが、高齢者、幼いお子さま、体力に自信のない方にはおすすめできません。
では、Let’s go!
スタートは、野殿の弁天池です。弁天池のわきの道を南へ(下の写真で向こう側)向かいます。軽トラが1台通れるていどの、舗装されていない道です。歩くのは容易です。
弁天池から150メートルぐらい行くと、下の写真のような場所に出ます。道路を横断して溝があります。写真では見えませんが、左側がちょっとした広場のようになっています。少女が指さしている方向へ進みます。
そこへ入っていくのは、下の写真のような感じです。道には見えません。昔はここを人が歩いていました。
まもなく、急な坂のつづら折れとなり、巨岩がちらほら見え始めます。足もとに気をつけながらおりていくと・・・
信じがたいほどたくさんの巨岩がごろごろ転がっています。「こんなもん、どこからでてきたんや?」と誰かに尋ねてみたくなるほど、奇妙な光景です。これらの岩は、大きすぎて、人間が乗ったぐらいでは動きません(たぶん)。
この巨岩はいわゆるコアストーンで、花崗岩が風化し割れてできた岩です。豪雨の時、土石流となって渓流を流れ落ち、大災害を起こします(ここの下流に集落はありません)。土の中で風化すると真砂土になります。
大きなヒノキ林と巨岩ごろごろ。なかなかの絶景です。
急な坂を下りきると、ゆるい下り坂となり、巨岩ごろごろも終了します。あれは、何だったんだ?
人が歩いて通れる程度の山道が続きますが、ところどころ、下の写真のように崩れています。写真の右側は小川が流れていますが、崖ではなく、川との落差も小さいので、滑っても危険は少ないでしょう。
巨岩ごろごろ終了から400メートルぐらい、弁天池から700メートルぐらいで、最初の堰堤があり、その横が六地蔵磨崖仏です。
【下からルート】ゆるりと散歩道(450メートル)
国道163号線ぞいの「おしはらレストラン」横から、村道大河原多羅尾線(野殿道)が野殿へ続いています。国道から3kmほど野殿へ向かって登ると、180度折れ曲がったようなカーブがあります。そこからさらに500メートルあまり登ると、下の写真のような地点に出ます。少女が指さしている方向が、入口です。ここに説明板が立っています。ここから先へは自動車では進入できません。
この道は、室町時代?(野殿集落が成立した頃)から、麓の北大河原と野殿、甲賀の多羅尾(たらお)、信楽(しがらき)を結ぶ道だったのです。1600年の関ヶ原の戦いで西軍についた薩摩藩の重臣が敗残兵としてこの道を落ちのび、無事に薩摩へ帰ったという史実があります。1953(昭和28)年の大水害までは野殿地区の小学生はこの道を通学路として北大河原の小学校へ歩いて通っていました。どれほどしんどかったことでしょう。
上からルートとはまるで違い、平坦に近い道で、幅もじゅうぶんあります。散歩気分で歩いていけます。
下の写真のように、倒木があるかも知れませんが、だいじょうぶです。
300メートルほど進むと、橋を渡ります。
橋を渡ってすぐ、堰堤が2つ続きます。
橋を渡ってから150メートルぐらいで、3つめの堰堤があります。ここが、目的地です。入口から450メートルほど、歩きやすい道です。体力に自信のない方でも大丈夫と思いますが、他に誰も通らないので、単独行動は避けて下さい。
六地蔵磨崖仏
いよいよ、目的地の六地蔵磨崖仏です。ここまで、お疲れ様です。
下の写真は、上流側から見た様子です。
下の写真は、下流側から見た様子です。
この巨岩は290センチメートル、幅620センチメートル、奥行き220センチメートルの花崗岩であり、六地蔵が岩に彫られている。像高41センチメートルの錫杖・宝珠形地蔵六体を半肉彫りにしたもので各頭光を負っている。
その左右に五輪塔が浮彫りにしてあり、左の地輪に「源阿弥」右には「妙一」と刻まれている。六地蔵にもそれぞれ法名が刻まれており、左から「妙心、妙一、妙道、源美、妙阿、源阿」とある。この磨崖仏の造立は室町時代のものである。
六体地蔵の上部には長さ172センチメートル、幅10センチメートル、深さ6.5センチメートルの溝があり、もとは石か木の庇があったと思われる。
室町時代に人々がここを往来していたということでしょう。それにしても、6人のお名前は誰なのでしょうね?
どうして、こんなに大きく立派な六地蔵さんがこんな奥深い山中の道路脇にあるのでしょう? 不思議ですね。近くにお寺やお墓があるわけでもありません。何かの事故で亡くなった人を供養するか、または往来を行き来する人びとの安全を願って作られたものではないかと思われます。