[北大河原/歴史]大河原宿と大和(伊賀)街道(Yamato street)
大河原城跡を東に進むと家並みが見えてきます。この集落が江戸時代の大河原宿です。
坂を下っていくと右下に商店と道が目に入ります。この道が大和街道そのもので、右に下っていくと旧国道163号を横切り大河原浜に通じています。この奥元商店の場所に井筒屋(いづつや)という茅葺(かやぶ)きの旅籠(はたご)がありました。
商店を東に進むと、左に荒いつくりの石垣が目につきます。街道筋の建物跡でしょう。
石垣から50mで右側に江戸末期か明治の古い民家があります。薪や炭の問屋を営まれていた旧家です。街道の道幅は2.4mですから今とあまり変わりません。狭いですね。
さらに100mほど行くと右側に細い道が別れます。
この付近が本陣、問屋、高札があった場所で、大河原宿の中心でした。本陣には大名や家臣が泊まり、問屋は行き交う商品や旅人のチェック、記帳をし、高札には御触書(おふれがき)などが張り出されていました。運送業者(馬借(ばしやく))の詰所もあり、柳生藩から15頭の馬の使用が認められていました。しかし発掘調査がされてないので詳しいことは分かっていません。
下の図は江戸幕府がつくった「加太越(かぶとごえ)奈良道見取絵図」の大河原宿の一部分です。今歩いてきた街道がかなり正確に描かれています。黄色は道です。描かれた民家の右端には柵らしきものがあり、建物も大きく書かれています。そして道の上に「高札」が 描かれ、「問屋」、「本陣」の文字も見えます。高札は御触書の掲示版、問屋は通過物や 人物をチェックする場所、本陣は大名や武士の宿泊所です。しかし、今はその場所がどこだったのか分かりません。発掘調査待ちです。
ここを過ぎると、渋久川(しぶくがわ)の土橋を渡り、街道一の難所である海老坂(えびさか)にさしかかります。