南山城村の歴史(昭和)

太平洋戦争のころ

太平洋戦争末期、我が国は戦争遂行にとって燃料問題が深刻でした。昭和18(1943)年、高山村(現在の田山高尾)で、豊富な亜炭層が発見されました。京都府の所要量を十数年間は満たすことができる埋蔵量でした。亜炭とは、石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいいます。戦争中・終戦直後にはさかんに利用されました。

亜炭の発見は、活性化をともなって地域を巻き込んでいきました。採掘労働のほか、高山村から大河原駅までの亜炭道路工事が突貫で行われ、国家的事業となりました。

亜炭の発見、薪炭の需要の増大、大阪など都市空襲による罹災者の増大、疎開家族の増大などにより、大勢の転入者を生み出し、大河原村・高山村では人口が増えました。両村を合わせた現・南山城村域の人口は、アメリカとの開戦前の昭和15(1940)年が3599人、終戦直後の昭和22(1947)年が5029人、昭和25(1950)年が4428人です。1940年から7年間で1.4倍に激増しています。

恋路橋

北大河原にある大河原駅と、南大河原の間には木津川があり、昭和初期まで、渡船によっていました。昭和14(1939)年、この場所に石橋を設置しようという計画がもちあがりました。その後、戦況の悪化によって、足踏みしていましたが、昭和19(1944)年、亜炭を大河原駅へ搬出する必要があり、架橋工事が着工されました。

昭和20(1945)年、花崗岩を使用した石橋が完成しました。木津川が増水すれば石橋は流れに隠れる「沈み橋」です。「潜没橋(せんぼつきょう)」とも呼ばれました。その後、平成8(1969)年、南山城村商工会が愛称を募集し、「恋路橋(こいじばし)」と名づけられることとなりました。恋愛・縁結びで知られる恋志谷神社へ向かう橋です。

恋路橋(渡った先は恋志谷神社)

新たな小学校

戦後は、教育制度が新たとなり、昭和22(1947)年、新たな小学校がスタートしました。

大河原校国民学校→大河原小学校

高山第一国民学校→田山小学校

高山第二国民学校→高尾小学校

野殿・童仙房地区には、大河原小学校の分校(昭和57年に独立校となる)

この4つの小学校は、平成の統合に至るまで、存続します。

田山小学校(廃校跡)

中学校の変遷

1947年の同じ時、中学校も設立されました。大河原中学校、高山中学校の2校で、それぞれ小学校舎の一部を借用しました。

2年後、1949年には笠置町も含めた組合立笠置中学校が創設され、笠置町に笠置本校、田山に高山分校、童仙房に野殿童仙房分教場が置かれ、大河原中学校は廃校となりました。

昭和50(1975)年、笠置中学校が、現在の場所、南山城村のJR月ヶ瀬口駅前に移転しました。これにより、高山分校、童仙房分教場は廃校となりました。

高校の変遷

昭和23(1948)年、北大河原に、京都府立木津高等学校大河原分校が設置されました。大河原村、高山村、笠置町が通学圏です。高尾田山野殿童仙房の学生は、大河原などに下宿しました。

昭和34(1959)年、大河原分校は廃校となり、現在の木津川市にある木津高等学校本校へ通学することになります。

現在も木津高校が最寄りの高校です。主にJRで通学しています。

月ヶ瀬口駅

国鉄・関西本線の大河原駅から東へは、島ヶ原駅でした。その区間、7kmもあり、1つ駅を作ることが要望されていました。いったんは、国鉄に拒否されましたが、地元住民の粘り強い交渉の結果、昭和26(1951)年に月ヶ瀬口駅が完成しました。奈良県の月ヶ瀬村へ通じることから命名されました。

月ヶ瀬口駅

南山城大水害

村の歴史に鮮明に残る、大災害でした。南山城村のみならず、近畿広域に甚大な被害をもたらしました。

昭和28(1953)年8月14日、夕方から降り始めた雨は激しさを増し、大河原役場付近では12時間に570mmというすさまじい雨量を観測しています。

山津波が大河原駅舎をのみ込み、木津川もはんらんし、村中が姿を変えるほどの被害でした。大河原では51人が亡くなっています。野殿童仙房は、道路が壊滅したため孤立し、米軍ヘリコプターも出動しました。

その被害が癒えない9月24日には、台風13号の集中豪雨により、以前以上の被害が生じました。国鉄も不通、すべての橋は流出・破壊されました。村中が破壊された状態です。田山地区も長期間孤立し、ヘリコプターの救援によって生き延びることができました。

復旧には長期間を要しました。とくに童仙房では、完全に元に戻るのに10年かかったとのことです。

水害の慰霊碑

南山城村の成立

昭和30(1955)年4月1日、大河原村と高山村が合併して南山城村が成立しました。いわゆる「昭和の大合併」です。三重県、奈良県、滋賀県と接しているため、生活圏や利害の不一致等で、これまで合併話が進展しませんでしたが、大水害が契機となりました。

合併当時、図書館・博物館・公会堂などの文化施設、上水道・電気・ガスなどの公営企業、劇場や映画館など娯楽施設は皆無で、銀行や資本金500万円以上の会社もありませんでした。

現在の南山城村役場