南山城村の歴史(明治・大正)

廃藩置県で京都府へ

明治4(1871)年、廃藩置県により、野殿童仙房を除く南山城村域が、柳生藩の管轄となりましたが、野殿村だけが京都府に移管されました。同じ年の内に、他の地域も京都府へ移管されました。

童仙房は、江戸時代を通じて無住の地でしたが、明治2(1869)年から京都府が開拓事業を行い、明治5(1872)年、京都府支庁が木津から童仙房に移され、同じ年に野殿村を合併する形で童仙房村が成立しました。後、明治16(1883)年に、童仙房村童仙房村野殿村に分離します。

江戸時代に柳生藩の武士だった人たちは、京都府貫属になり、士族となりましたが、南山城村域の士族は、多くが帰農していきました。

村の形が整う

明治21(1888)年、全国的な町村合併により、南山城村域では、高山村(現在の田山高尾)と大河原村(現在の北大河原南大河原童仙房野殿)の2村となりました。ちなみに、明治31(1898)年、両村の人口は合わせて3298人、704世帯です。現在(2018年6月)は、2787人、1246世帯なので、村の規模は当時と同じ程度ですが、世帯あたりの人数が大きく違います。

村の中に、「区」という単位があります。都市部には見られない仕組みです。一定のまとまりをもった地域を区とし、区長が選ばれ、区行政が行われます。この仕組みは、現在も続いています。明治22(1889)年から大正初期まで、高山村(高尾区田山区)、大河原村(北大河原区南大河原区野殿区童仙房区)という6区でした。これは、合併前の村に相当し、現在でも大字(おおあざ)に引き継がれています。

大正7(1918)年、北大河原区が、今山区奥田・押原区本郷区に分割されました。この区割りは、現在に近いです。現在、南山城村では、6つの大字と10の区があります。現在は、大字北大河原に5つの区があり、残り5つの大字は、そのまま5つの区です。

道路と鉄道

江戸時代までは物流の主役は木津川の水運でしたが、明治維新以降、交通手段が変化します。人力車・荷馬車の登場です。当時の道路は、伊賀街道だけが2.4m幅で、他の道路は1.2m幅でした。しかも、急勾配の坂道や峠がいたるところにありました。明治18(1885)年ごろから、伊賀街道の工事が計画されていきました。

道路の整備は、村民にとってますます重要となっていきますが、他の路線も含め、大きな費用を要し、簡単には進みませんでした。現在も、南山城村民にとって、道路整備へのニーズは大きなものがあります。

明治30(1897)年、私設関西鉄道の上野―加茂間が開業しました。明治40(1907)年、政府に買収され、国鉄・関西本線となり、現在はJR・関西本線に当たります。この区間は、山間部で、名張川・木津川に沿っての工事は困難を極めました。トンネル、架橋、護岸工事、擁壁工事などが必要でした。現在は、その路線風景が秘境めいて、人気を呼んでいます。

JR関西本線

橋が架かる

田山高尾の間には名張川があり、渡船が重要な交通手段でしたが、明治末ごろ、ここに橋を架けようという計画がもちあがります。構造は吊橋型で、長さ63.6メートルの計画でした。しかし、財政上の問題で、計画は頓挫し、昭和19(1944)年になってようやく完成にこぎ着けました。現在、高山大橋は美しい吊橋として、重要な交通路になっています。

高山大橋

大河原村高山村の境界には、笹瀬の渡しがありました。日露戦争後、ここに橋を架ける計画がもちあがりました。橋を架けては流出、を繰り返し、昭和30(1955)年、笹瀬橋が、鉄筋コンクリート製の頑丈な橋として完成しました。現在も、笹瀬橋は重要な交通路です。

笹瀬橋

大河原発電所

明治末期からの発電所建設計画が、大正8(1919)年、大河原発電所の完成によって成就しました。発電所本館は大きなレンガ造りで、現在もそのレトロな外観が村の風景にマッチしています。

ここで作られた電気は、山城地域へ送られましたが、同時に、南山城村域での電灯供給に役立ち、童仙房以外の地域は大正後期にほぼ電気が供給されたようです。童仙房だけは電気供給は戦後まで持ち越されました。

大河原発電所