南山城村の歴史(古代~室町時代)

古代 ―木の津―

南山城村の周辺地域からは、縄文時代の住居跡なども発掘されているので、古い時代から人が住んでいたようです。歴史に現れるのは、奈良時代、平城京で必要な木材を、筏(いかだ)を使って木津川で運んだあたりです。上流の伊賀から奈良へ向けて下るに、狭くて急流の難所がありました。そのひとつが、南山城村にある明神の滝です。流されて来た木材が停滞するので、筏をはずし、滝を通過した後、再び、筏を組むという事が、後々まで行われたとのことです。高僧が集まり、雨乞いの願を掛けて、無事満願の日に大雨が降って、木材を流す事ができたのだという伝説も残っています。

 

じつは、これよりもっと古い伝説もありますが、それについては童仙房のページで紹介します。

平安時代 ―寺社と仏教美術―

書物に南山城村の地名が現れるのは平安時代です。『日本三代実録』に、「(859年)山城国の従五位下の大川原国津神…に従五位上を授く」とあります。現在、南山城村の大河原地区に国津神社があります。平安時代初期に、土地の神様に対して神階を1つ上げたとのこと。かなり古くから、南山城村の大河原地区に集落が存在し、土地の神様が祀られていたことになります。

 

国津神社のすぐ隣に、春光寺があります。そこには、10世紀に作られたとされる薬師如来像が現存しています。

田山地区の観音寺には、10世紀に作られたとされる大日如来坐像があります。

野殿地区の福常寺には、12世紀頃の地蔵菩薩立像があります。

 

平安時代の仏像はこの3件ですが、南大河原地区の真林院に平安時代の絵画が伝来していることは奇跡的です。12世紀の絹本著色両界曼荼羅2幅と、13世紀の同星曼荼羅が伝来しています。

鎌倉・南北朝時代 ―後醍醐天皇、鎌倉幕府に破れる―

南山城村にとって、大きな事件が起きます。

 

鎌倉時代末、後醍醐天皇は政権を武士から朝廷にとりもどそうと、幕府打倒をくわだてました。1331年、天皇は挙兵前に幕府に発覚してまったことから、京都を脱出し、和束町の鷲峰山(じゅぶせん)金胎寺(こんたいじ)に向かったものの、要塞に不足を感じ、さらに南下して、笠置町にある、笠置山頂上の笠置寺の本堂を皇居としました。南山城村のすぐ隣に、一時的な「皇居」があったわけです。

9月5日に、幕府の大軍が笠置山を取り囲みました。天皇方には楠木正成らも付き、よく持ちこたえました。現在も、笠置山には、当時の闘いの跡が残ります。しかし、最後は幕府軍が山に火を放ち、9月28日には天皇は笠置を落ち、幕府軍にとらえられ、翌年、隠岐の島へ流されました。

当時の詳しい状況は明らかではありませんが、南山城村もこの戦乱に巻き込まれたことでしょう。大河原地区、田山地区の郷士たちが天皇方に加わったとも伝えられます。

 

恋志谷神社

後醍醐天皇の高位の女官が、病気療養のため伊勢にいたが、戦の知らせを聞き、笠置まで駆けつけたが、すでに天皇は落ちた後で、「恋しい、恋しい」と叫びながら、南山城村の南大河原地区で自害したと言われています。その地には、恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)が建てられ、良縁や安産にご守護があります。

 

別の女官(后?)「円王の君」は、柳生の里、高尾地区の山々を経て逃れて来られ、田山地区の笹瀬の渡し場を渡ったあたりで、追手にとらわれようとされた時、護衛の軍兵数人が、身を挺して、現在、自害谷と呼ばれている谷の巨岩の上で自害して守り通しました。その後、園王の君は、隣の月ヶ瀬村に住みつかれました。自然に包まれた村に春が来ると、梅の花が咲き出し、園王の君は村人たちに、梅の実が、化粧用の京紅、紅染、黒下染等の原料になるのだと教え、その栽培を奨められました。これが、現在の月ケ瀬梅林の起原だとのこと。園王の君が他界されると、田山地区の村はずれの地に葬り、そこに姫若の塚が作られました。田山地区では、姫ヶ森と呼んでいます。

 

また、別の話があります。乳飲み子であった皇女様(史書には名前を見ません)を乳母が抱えて逃げ、笠置山から北東の山へ逃げ込みました。しかし、幕府軍の追っ手から逃げ切ることはできず、乳母は皇女様を滝へ投げ、自分も同じ滝では畏れ多いと、近くに別の滝を探し、そちらへ身を投げたとのこと。それらは現在、童仙房地区で、稚児の滝乳母の滝と呼ばれています。

稚児の滝

乳母の滝

室町時代 ―武将の待避所―

1467年の応仁の乱以降、戦国時代にかけて、京都府南部も戦乱に巻き込まれますが、南山城村は、直接の戦場にはならなかったようです。大和の武将たちにとって、南山城村(田山大河原)は、いったん逃げ込んで、態勢を立て直して、再び打って出るまでの場所でした。不便であるがゆえに、敵も攻めてこないという利点ともなりました。