南山城村の歴史(童仙房)
童仙房は、村内でも特異な歴史を持ちます。明治時代に至るまで、南山城村の他地域とは別のエリアでした。
古代の伝説(地名の由来)
6世紀の終わりごろ、奈良に平城京ができるより100年あまりも前のこと。飛鳥の地に日本で初めての本格的な寺院ができました。現在の元興寺(奈良市)の前身で、法興寺といい、現在は飛鳥寺とよばれています。
その落慶式のおり、現在の井手町あたりに住む人たちも参詣し、その場で仏法伝受を受け、僧となりました。その1人が、自分もいつか立派な寺を建てたいものだと願い、それにふさわしい地を訪ね歩きました。
現在の南山城村大河原へやってきて、宿に泊まりました。すると、北西の方向に金色の光が見えるではありませんか。夜が明け、北西の高台へ登ると、天から紫雲たなびき美しい童子が現れ、「あなたは、徳の高い僧です。私は帝釈天の使いです。ここに寺院をお建てなさい」と告げるやいなや、消えてしまいました。
これはありがたいお導きだと、この地に大きなお寺を建て、多くの僧が集まり、お堂が1000ほども作られ、「堂千房」転じて「土千房」と呼ばれ、栄えました。
200年の時がうつり、世は平安京となりました。都のお公卿さん、藤原是公がたびたび土千房を訪れ、地元の早瀬女という女との間に男の子をもうけました。都では、無実の罪で処刑された早良親王をおとしいれたのが、藤原是公たちだと噂され、早良親王の祟りを怖れていましたが、その子がここにいる、ということで、村の人たちは怖れおののき、承和10(843)年12月7日朝に村人たちが集まって、土千房へ火を放ち、大伽藍坊舎とも、ことごとく焼き払いました。
その後は歴史の空白
この伝説は古文書に記されたものですが、真偽のほどはわかりません。明治の開拓時に瓦が多数出てきたとの記録もありますが、この伝説との関係は不明です。
童仙房に関して、江戸時代に入るまで、歴史は何も残っていません。歴史の空白地帯です。どのような人たちが暮らしていたのか、または人が住んでいなかったのか。
その間に、もうひとつ、伝説があります。もちろん、真偽のほどはわかりませんが。
中世の伝説(稚児の滝)
鎌倉時代末、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒す謀略をはかっているのが幕府にもれて、天皇は南山城村のとなりにある笠置山へうつり、行宮(あんぐう)とし、天皇軍が笠置山の上、鎌倉幕府軍が山のふもとに陣取って、1カ月の攻防が繰り広げられました。
とうとう、幕府軍は、山へ火を放ち、天皇軍は敗走しました。後醍醐天皇は、つかまり、翌年、隠岐の島へ流されることになります。
天皇軍が笠置山で敗れたさい、赤んぼうの皇女様を抱いて乳母が童仙房へ逃げこみました。幕府軍が追ってくるし、もう逃げられないと観念した乳母は、皇女様を滝へ投げ、自らも同じ滝ではおそれおおいと、別の滝を探し、そちらへ身を投げました。
現在、童仙房の總神寺の入口付近に「稚児の滝」があり、別の沢に「乳母の滝」があります。いずれも、大きな落差の滝で、ここから落ちれば、とうてい無事ではいられないでしょう。
江戸時代の領土争い
確認できる歴史に童仙房が登場するのは、江戸時代に入ってからです。2つの伝説を除けば、童仙房の歴史を語ることができるのは江戸時代以降ということになります。
江戸時代には、柳生藩、藤堂藩、御料が、童仙房地の所領を主張して争い、正徳4(1714)年、京都町奉行所の法廷に持ち込まれ、いずれにも属さない土地、すなわち空白地帯とされました。年に1回、三郷が集まって協議を行ったといわれ、その場所が参会石という小字名に現在も残っています。
空白地帯ということは、「無税の空地」であったため、協約を破る者が多く、論争が絶えることなく、明治に至ります。
明治の開拓
明治に入り、廃藩置県後、童仙房は京都府に組み込まれました。
明治2(1869)年、京都府は、童仙房の開拓を府の官営事業として行うことを決めました。官吏・市川義方を開拓責任者とし、労働者を雇用して、道路をつくり、荒れ地を開墾し、住居(三軒長屋)をつくりました。まったくの未墾の地に入植させたのではなく、ある程度まで住居や農地を用意してから入植者を募りました。
明治4(1871)年6月、開拓が完成し、162戸、560人が居住したと報告されました。これをもって、童仙房村が成立しました。
明治5(1872)年には、京都府支庁が童仙房へ移されましたが、交通の便の悪さが支障となり、7年後には童仙房支庁が廃止されました。この間、役所の他、警察署や郵便局も童仙房に置かれ、にぎわいを見せました。童仙房支庁跡は民家となっていますが、その前に「役所池」があり、往時のなごりをとどめています。
開拓以降
大規模に開拓され、一時期、文化の中心地として繁栄したものの、童仙房支庁廃止後は、純農村となり、最盛期には200戸余りだった住民が減少の一途をたどりました。40戸にまで落ち込みましたが、終戦後、再び開拓事業が持ち上がり、27戸の入植がありました。
童仙房は、標高400-500メートルにあり、自然条件は過酷でした。入植者には、離村する者も多くいました。
昭和23(1948)年、全戸に電気がとおり、昭和34(1959)年に有線電話が、昭和41(1966)年には電電公社の電話が架設されました。昭和43(1968)年には、山城谷道路舗装工事が完成し、自動車が通れるようになりました。
昭和44(1969)年には、開拓100年の節目を迎え、開拓碑が建てられました。
平成以降、生活環境は大幅に改善され、開拓ではなく個々に移住してくる人たち(家族)も多く、別荘も多く建てられています。そして、2019年には、開拓150年を迎えます。