南山城村の歴史(江戸時代)
柳生藩
南山城村の高尾地区に隣接するのが、奈良市柳生地区です。歴史で有名な柳生氏の拠点です。初代柳生藩藩主が柳生宗矩で、すぐれた剣術者であり、将軍家師範となりました。現在の南山城村を構成する(当時の)村々は、江戸時代の早い時期から柳生藩領に組み込まれていきました。
宗矩の子に、十兵衛、友矩、宗冬、義仙らがいます。南山城村は、あの片眼の剣士、十兵衛の終焉の地であり、若くして没した友矩の菩提寺の十輪寺も村内にあります。義仙和尚の寄贈による千体仏が今でも野殿地区の福常寺にあります。南大河原の天満宮社は宗冬によって改築され、鳥居などが今なお現存しています。宗矩の時代から明治維新まで、江戸詰家老として活躍した野殿家が、今なお、野殿地区に存在しています。田山、北大河原両地区には、歴代の柳生藩主の墓があります。
柳生藩の体制が整備されるにつき、田山、南北大河原の有力者を郷士に取り立てて、高十石ずつ与えることになりました。普通の士族とは違って、地方にいて、柳生でのお勤めは免除されながら、名目上、郷士の資格を与え、村内の統率を行わせました。野殿家は、家老職にあって、江戸詰めとなりました。高尾では郷士は選ばれず、そのじかわりに大庄屋を選んでいます。
南山城村の郷士たちは、直接、柳生への御勤めがなかったので、北大河原地区の東光寺と、田山地区の華将寺(ともに廃寺)に、歴代の柳生藩主の墓を作ることによって、その命日に御参りをしていました。
江戸時代の国境紛争
江戸時代には、柳生藩と藤堂藩(現在の伊賀市)が、現在の南山城村にあたる地域で国境論争をくりひろげ、地元で決着がつかず、江戸へ出訴にいたり、幕府評定所で1700年にようやく「判決文」を得ました。現在も、当地に二本杭が残っています。
現在の南山城村童仙房地区も、江戸時代において、国境係争地でした。童仙房は、南山城村の中で、特異な存在なので、この係争については童仙房のページで紹介します。
木津川
南山城村の中央付近を東から西へ横断する木津川は、古くから物資運搬の大動脈でした。「木津」という名前じたいが、材木が集まる津(港)ということからきたものです。
江戸時代になると、木津川の水運も幕府の管理するところとなりました。笠置から上流(東側、伊賀方面)は、大きな船がのぼらず、小さな高瀬船が航行していました。南山城村域からの荷物は、笠置で積み替えることとなり、たいへんな手間がかかっていたようです。南山城村域からの荷物は、木柴や木炭が中心でした。江戸時代後期からは、信楽焼やお茶も運ばれました。煎茶は、開国とともにアメリカやイギリスへの輸出品となったことから、生産も急増しました。逆に、南山城村域へ運ばれた荷物の代表は塩でした。
現在は、木津川沿いに国道163号線が走っています。名古屋と大阪をだいたい直線で結ぶようなルートです。奈良時代、平城京から伊賀へ東海道が通じており、江戸時代にも街道として利用され、現在も国道として利用されています。